当然の疑問ですね。目的もなく、1000ページや2000ページを超えるような見るからに分厚い作品を読みたいとは思いませんから。
私の経験則と、少し脳科学的な視点を交えながら、お答えしましょう。
【メリット3つ】
①表現力の向上(難しい言葉を覚×)
これは想像していただけるとおりだと思います。ただ、小難しいボキャブラリーを読んでいるだけで覚えられるということではありません。夏目漱石の『吾輩は猫である』や志賀直哉の『暗夜行路』を「勉強」していただければ話は別ですが、基本的にはこれらの作品を紡いでいる格調高い表現力を、読んでいるだけで吸収することはできません。そうではなくて、他の人にきちんと通用する普通の言葉をたくさん浴びることによって、「こういう表現ならば、相手に十分理解してもらえるだろう」という自信の持てる語彙力を獲得できる、ということを申し上げたいのです。
古典文学というのは、多くが大衆文学です。つまり、多くの人に読んでほしいから書かれているものがほとんどです。例に挙げた二つの作品のように、硬質な表現を読者に味わっていただくというのも一つの方法ですが、たいていの作品は普通の言葉の連続で、古典化しています(極端に砕けた表現もまた少ないです)。
古典文学の多読によって、人とコミュニケーションする上では十分なボキャブラリーを獲得できます。「この言葉なら相手に十分通用するよね」という自信は、日常生活においてかなり役立ちます。
また、普通の言葉の連続だからこそ、何の予備知識がなくとも、いきなり古代ギリシア文学に入っていける敷居の低さも文学の魅力の一つと言えます。
②人類普遍の感情の理解
これがひょっとしたら、皆さまの日常生活で一番役に立つかもしれません。
文学というものを衣服でたとえるなら、人間の感情は糸のようなものです。すなわち、衣服のようにたくさんの糸が織り合されることによって、文学というものは感情によってできあがっているのです。古典文学も人間の感情が綾なされることによって、構成されています。
2800年前の古代ギリシア文学の『イリアス』という作品、つまり現代の日本と時間的にも空間的にも全く繋がりがなかった作品に対して、私は十分に感情移入しながら読むことができました。同じく、2000年前の古代ローマ文学『アエネイス』という作品でも、1000年前の日本文学『源氏物語』でも感情移入しながら読むことができました。
これが何を意味するのか? —―私には、人間の感情というのは、時代を超えても場所を超えても、そんなに大きく変化していないのではないか、と思えました。
たとえば、自分にとって大切な人が亡くなって、嘆き悲しむ感情というのは、もう本当に、古今東西の作品(『戦争と平和』でも『水滸伝』でも『源氏物語』でも)でも描かれていました。先に挙げた古代ギリシア文学の『イリアス』の作者のホメロスが、『源氏物語』や『戦争と平和』を読む機会があるはずもないのに、こういう人間の感情は共通している――私には、全てとは言わずとも、時代を超えても場所を超えても共通する人間の感情がある、つまり人類普遍の感情があるのではないかと思わずにはいられなかったのです。
こういう感覚は、現代の作品だけを読んでもつかめません。というのも、大衆淘汰や時代淘汰を経ていない現代の作品群は、千年後の人にも通用するかわからないからです。現代の作品に描かれている感情が、たとえその作品がベストセラーになったとしても、一時的なブームや熱気に過ぎない、すなわち、その時代やその場所でしか通用しない感情かもしれないからです(むろん、古典になり得る可能性は常にありますが)。
私たちの日常生活において、他の人の感情を経験則だけでつかもうとすると、余計な失敗、場合によっては、取り返しのつかない失敗をしてしまいます。古典文学を読み漁ってから、「ああ、この人、あの作品を読んでいれば、こんな失敗しなかったのになあ」とか「ああ、昔の私は、この作品を読んでいれば、あの時、あの人の感情を傷つけずに済んだのになあ」と思うことが、たくさんありました。
私たちが「常識だろうと思いこんでいる感情」は、実は、ズレていたりします。古典文学を通して、私は何度も「これが世間の常識的な感情だろう」という「ズレ」を正されてきました。皆さまには「自分と世間との感情のズレ」を矯正してほしいとは申し上げませんが、古典文学を多読すると、時代を超えても場所を超えても変わらない人間の感情があることはわかります。自分はどこが「ズレて」いるのかを自覚できるので、人生の中で余計なトラブルを起こさずに済みます。1000年前、2000年前から変わらない感情であるならば、どうせ現在だって、多少の個人差はあれど、全体的に見たら変わりません。古典文学を多読すると、こういうメリットもあるのです。
③(あれば)その作品のテーマの吸収
初耳の方もいらっしゃると思いますが、文学にはテーマがある作品とない作品があります。古典化されている作品は、テーマが設定されている作品が多いです(それこそ古代ギリシア時代から)。
そして私は、皆さまにこの文学作品のテーマを吸収していただくために、自分の講座であの手この手の方法を尽くしていく所存です。
ただ、「そもそもテーマとは何か」「テーマの類型は何か」「なぜ文豪たちはテーマを設定するのか」「どのようなテーマならば古典化し得るのか」などなど簡潔に説明することが難しいので、ここでは「テーマというものが存在する」という説明に留めて、私の講座において数回に分けて説明いたします。
さて、以上3つのメリットを挙げましたが、この3つに共通するのが、「反復」です。
①たくさんの普通の言葉が「反復」されるから他人に普通に通用する言葉たちを忘れずに覚えられる
②どの時代やどこの地域の作品であっても共通した人間の感情がたくさん「反復」して出てくるから人類普遍の感情を感得できる
③その作品において、テーマに関する文章が「反復」して出てくるから、その作品のテーマを忘れずに覚えられる。
反復が多ければ多いほど忘れ辛くなる、というのは脳科学的にも確かなことです。脳の中の海馬という部分が、知識等を長期記憶に入れるか、短期記憶に入れるかを決める役割をしているのですが、この海馬に「大事な知識だぞ!」と思わせるためには、たくさんの反復が必要になります。
—―分厚い古典文学を多読することは、人間の脳に対していたずらに負担をかけるのではなく、大衆淘汰と時代淘汰を経てなおも生き残った古典の教養を無理なく吸収できるように構成されているのです。だから、古典文学を多読するメリットは、人間が生きていくにあたって巨大なものであると言えます。
【デメリット】
さて、悪い点も書かねばなりません。
一言で申し上げて、読むのに時間と労力がかかる、ということです。古典文学というのは、とにかくページ数が多い、文章量が多いので、苦手な人にはとても厳しいものとなると思います。そして、物語系の特徴ですが、基本的に最後に至るまでオチはわかりません。どんなに予測がついてもそれが本当にそうなのかは最後まで読まないと確定できないのです。
なので、私は「要約」や「ネタバレ先行要約」の講義を設けて、テーマ(作者の主張やオチ)から、先にお伝えしよう、と思いました。1000ページ読むよりは圧倒的にテーマを知ることは簡単です。文章量が多い分だけ、現代文のテストとは異なり、ヒントが山のようにあるので、読書メモさえ取れば、テーマを取り違える心配はほぼありませんし。
ただし、「要約」や「ネタバレ先行要約」の講義では、「勉強」しなければすぐに忘れると思います。最新の脳科学の知見に基づいた「忘れないための復習方法」をお伝えはしますが、脳科学というのもまだ発展途上であり、残念ながら、あくまで「現時点での最善策」しかお伝えできません。
なので、個人的には上に挙げた3つのメリットもあるので、読破された方がよいとは思っています。経験則上、1000ページ超の作品を読破すれば、少なくともその作品名は忘れないし、テーマの解釈(簡単だけど面倒)ができれば、テーマを抽出することは可能です。しかしながら、私は皆さまにテーマの解釈の労を取らせたくありませんので、こちらが1000ページ超の作品でも読書メモを取り、それを整理した原稿を基に発表する「読書会」の講義をいたしますので、ご安心ください。
また、そもそも活字が苦手など、様々な理由で本を読むのが困難という方向けに、その作品のテーマに基づいた「肉付け要約≒朗読」で、物語を私自身で(ほとんどの場合は文章を変換して)その作品の寄り道(テーマに関係ない文章)以外の部分を読み上げて対処いたしますので、皆さまは手元に一冊の古典がなくとも構いません。「未読でもOK!」というタイトルは必ず守りますのでご安心ください。