著作権法をこの講座は遵守しているのか?

 

「この講座は著作権法に違反してはいないのか?」—―こういう当然の懸念に、今回はお答えしていきたいと思います。

 

著作権法に違反しながら展開すると、この講座のサステナビリティ(持続可能性)に関わりますし、古典文学を多読していると、「世間」や「名誉」といった言葉があまた出てきますので(それこそ古代ギリシアの時代から、その国一番の屈強な戦士でさえ『世間様』には怯えていました)、この講座が突如として潰れて皆さまに古典からもたらされる教養を提供できなくなることを防ぐため、またついでに私個人の名誉を毀損したくない観点から、この法律を破るわけにはいかないと思っています。

とはいえ、勇ましい宣言は誰でも言えますので、具体的に著作権法の何を遵守し、どのようにこの法律を守るつもりなのかをご説明いたします。

 

まずは、一番大事な著作権法の条文を確認しましょう。

 

著作権法第五十一条第2項:著作権、この節に別段の定めがある場合を除き、著作者の死後(共同著作物にあつては、最終に死亡した著作者の死後。次条第一項において同じ。)七十年を経過するまでの間存続する

 

上記のとおり、著作権は著作者の死後七十年経過すると、著作権は保護期間から外れるということです。

「この節に別段の定めがある場合を除き」とありますが、これは例えば法人や団体が作った著作物は、その著作物の公表後七十年後に著作権は消滅する(同法・第五十三条第1項)とか、外国の著作物の場合著作権の保護の期間が七十年よりも短い場合は、その国の短い場合の著作権の存続期間を適用する(同趣旨として同法・第五十八条)などであり、著作権の保護期間は、第五十一条第2項における著作者の死後七十年が経過するまでが最も長い、と言えます。

 

なお著作権法第五十七条により、著作者の死亡した日の翌年から起算されます。たとえば、もし、2000年に著作者が死亡した場合、2001年から起算され、2071年に著作権が消滅する、ということです。

 

なので、2023年現在においては、1952年以前に亡くなった著作者の著作物であれば、確実に著作権は消滅していると言えます。

 

そこで、こちらの対策としては、【作品名 ページ数 作者の生没年 作者名】を各動画のタイトルに表記します。世界史や日本史の教科書や資料集、あるいは作品に記載されている作者のプロフィールなど、信頼できる情報源から作者の生没年をチェックし、万が一の間違いを防ぎます。

むろん、19世紀以前の著作物ならば何の問題もないでしょうが、1950年前後に亡くなられた作者の場合は取扱いに気を付けなければなりません。また、たとえば古代の文学だと生没年がわからない、作者が不明という場合があります。近現代の作品で作者不明の作品を取り扱う予定はないので問題ありませんが、古代の作品なので、明らかに著作権は消滅していると考えて構わないと思います。

こうして、この講座では著作者の生没年を確実に記載して、こちらはもちろん、皆さま自身の目で見て判断できるようにして、著作権侵害にならないように気を配ってまいります。

 

【翻訳・現代語訳の場合はどうか】

皆さんは、私自身が英語にもフランス語にもドイツ語にもイタリア語にもスペイン語にもロシア語にも中国語にも、つまりはどの言語にも精通している、とは思ってはいらっしゃらないでしょう。

しかし、世界史の先生が、中国の歴史を教えるにあたって中国語に精通していなければならないか、あるいはギリシア語をマスターしていなければギリシアの歴史を教えてはいけないのか、と言われたら、そんなはずはありませんよね。そんな抗議を私は聞いたことがありません。

ある程度の古典の知識は必要でも、一つ一つの言語に精通する必要はありません。だから、各々の国の翻訳物や古文の現代語訳に頼るというのは、間違ったことではないと思います。

 

しかしながら、さすがに、翻訳物の表現をそのまま使ったり、現代語訳の表現をそのままパクってもいいかと言われたら、それはさすがに著作権の範囲内だろうと思います。

たとえば、『罪と罰』の翻訳本は複数の出版社から出ておりますが、その内の一社の翻訳物を丸々書き写してインターネット上に公開したならば、著作権侵害となると思います(むろん、翻訳者の著作権が消滅していなければ)。

 

しかし、『罪と罰』の作者ドストエフスキー著作権は、1881年没につき、作者の死後70年以上を明らかに経過しているため、消滅しています。なので、罪と罰』の内容そのものは、もはや著作権法の及ぶものではないことは断定して申し上げられます。そうでもなければ、複数の出版社が『罪と罰』を出版することはできません。『源氏物語』にしても『平家物語』にしても『戦争と平和』にしてもしかりです。

 

したがって、翻訳者の表現を丸々パクるのは問題ですが、著作権が消滅した作品ならば、その内容を要約したり、別の表現に置き換えたりして発表する分には問題ない、と言えます。これは、著作権法の対象ではない、たとえば数学の知見などは、複数の出版社が実質的に同じものを、ただし表現を変えて発表しているのと同じです。なので、著作権の消滅した作品というのは、人類共有の財産ということで、その内容自体を、表現を変えて公開する分には問題ない、ということになります。

 

そこで、私は古典の内容を自分なりの文章で書き改めて、皆さまに公表するつもりです。そうして、動画形式で、皆さまに、『ネタバレ無し要約』や『ネタバレ先行要約』や『肉付け要約≒朗読』や『読書会』という形で、ご紹介するつもりです。

なお、パロディにするつもりはありませんので、表現そのものは私自身のペンで改変しますが、古典の実質的な内容を変えるつもりはありません。

 

たとえば、『ニーベルンゲンの歌』の一節から、私自身が文章を置き換えるということをご説明いたします。

 

原文:「あなたの眼鏡に狂いはありませんでした。あれこそあなたが、なさけも、こころも、たましいも捧げておられる美しい姫、気高いプリュンヒルトなのです」

 

という表現を、

 

改変:「さすがグンテル王様はお目が高い。彼の婦人が、あなたの御心を魅了するプリュンヒルト姫であります」

 

 というように、書き換えています(原文の称賛に関する文章量を改変で減らしているのは、作中においてプリュンヒルト姫はそこそこ重要な人物ではあるが、しかし、作中全体を鑑みると、脇役の一人にすぎない、と判断したからです)。

 

他の作品も記しておきます。

 

イリアス』より、

 

翻訳文「ものみなを焼き尽くす野火が、山の尾根に果てしなく続く森を焦がし、焔の色が目も遥かなる辺りまで照り映えるさまにも似て、兵士らの進むにつれ、数知れぬ青銅の物の具は目も眩むほどの光を放ち、空の高みを貫いて上天に達した。」

 

改文「全てを燃やし尽くす炎が、山を覆う広大な森を真っ黒な大地へと変える際に、炎の色が遠く彼方まで赤く染めあげるように、戦士たちの進撃する所、幾多の青銅の武具がまばゆいほど輝き、空を突き抜けて天へと至った。」

 

罪と罰』より、

 

翻訳文「彼(ラスコーリニコフ)は不安な眠りから起きたが、眠りによって元気は出なかった。不機嫌でいらだたしい、むしゃくしゃした気分で目を覚ますと、憎々しげに部屋の中を見まわした。そこは、奥行き六歩ほどの、ちっぽけな檻を思わせるひどくみじめったらしい部屋で、埃をかぶった黄色っぽい壁紙があちこちはがれかかっていた」

*括弧内は、こちらの補足です。

 

改文「ラスコーリニコフは、落ち着かない睡眠から目を覚ましたが、睡眠のおかげで快活になるということはなかった。気分は最悪で、苛立ち、舌打ちをしながら部屋を改めて見まわした。彼の部屋は、満足に歩くこともできない狭い独房のような酷いところで、壁紙がいくつかはがれていて、その上には埃が乗っかっていた」

 

 

このような調子で、文章を書き変えています。初期のころは、本の文章に線を引っ張って、その横に改文を書くという要領でしたが、今ではルーズリーフにすべて手書きにしています。文章に線を引く手間を省くためです。アナログな方法だと思われるでしょうが、発表原稿に関しては他の人とデータ共有する必要もありませんし、パソコンを立ち上げたり、印刷する手間とコストを勘案すると、この場合は手書きの方がもっとも効率的なのです。

 

 

「お前の表現力は大丈夫か?」と問われたら、私は、いずれも文庫本サイズで、5700ページ以上の『失われた時を求めて』や、5300ページ以上の『大菩薩峠』、4000ページ以上の『西遊記』など、あまたの古典を読破してきたので、これだけ読んで人並み以下ということはないのではないか、と願っています(そうだったら悲しいのですが)。もっとも、だからと言ってミスがなくなるわけではないので、少なくとも一回は(特に『肉付け要約≒朗読』の作品は)全体を音読練習してから、皆さまに向けて発表いたします。

 

この項を以って、著作権法遵守の姿勢や文章改変に関してご納得していただければ、幸いです。